妻の伯母の法事

こんにちは。ダディです。

妻の伯母の一周忌に参列しました。

浄土真宗です。

お寺のお坊さんは、読経後に説法を行います。

これが非常に分かりやすく、納得して理解できるような説明をしてくれます。

 

つい先日、宗教の在り方について考えたところでした。

奇しくも、教えを頂く事になったのです。

一周忌の内容

読経40分、説法20分の予定で、説法が若干長くなりました。

10分程度延長となった印象です。

説法の後半というか最後の20分程度で、お坊さんのお父様が亡くなられた時のお話をなさいました。

説法の内容

とても元気なお父様は肝臓を患い、お亡くなりになる少し前に、病院の数値的に「既に死んでいる」という状態だったそうで。

「じゃあ、俺はなんで生きとるとや?」と、医師に説明を求めるほどに、お元気だったそうです。

「数値的に今までに無い異常な状態です。いつ大事に至ってもおかしくありません。」との回答。

そして、いつまで生きたいという願望の期間を医師に訊ねたそうです。

お孫さんの夢が叶う時期、お孫さんが小学校に入学する時期。

どれも、命が持たない期間だったとの事。

お坊さんは、お父様に言ったそうです。

「その願いの全ては、空から見守っていれば良い。」と。

お父様は、しょんぼりなさったそうです。

翌日、お坊さんは「ちょっと言い過ぎたかな」と心配していたようで、お父様とお会いになったそうです。

「昨日は言い過ぎたから、ごめん。」とお伝えしたそうです。

すると、お父様は「俺が1人死んだっちゃあ、なんも変わらん。」と仰ったそうです。

お坊さんは、お父様に訊ねたそうです。

「死んだらさ。誰に会いたい?」

「かかぁ(お母様)と、姉ちゃんに、会いたいなぁ。」と、お父様。

「あぁ。ばあちゃんと、おばちゃんね!」とお坊さん。

 

それから数日後、お父様は入院なさったそうで。

毎日お見舞いに行き、帰りに病室の扉を閉めるとき。

この状況で、父は何を考えているんだろう。

今、この状況では、地位や名誉や資産なんて、あったところでなんにもならない。

そんな追い込まれた、死に直面した今。

父は、何を考えているんだろう。

お坊さんは、そう思ったそうです。

 

数時間後、容態が急変したそうです。

お父様はベッドで激しくのた打ち回る状態だったそうです。

その姿は見るに堪えないものだったそうで。

鎮静する注射をお願いしたそうです。

15分程度して、お父様が少し落ち着いた時。

「オヤジ。ばあちゃんとおばちゃんに、会えるな!」とお坊さんはお父様に声を掛けたそうです。

すると。

お父様は、苦しそうな表情で、手を頭上に掲げて。

👌

と、したそうです。

その数分後、息を引き取られたそうです。

僕は思わず涙しました

これを聞いて、もう、僕は涙が溢れてしまいまして。

お坊さんのお父様は、信じていたのだと思います。

先に亡くなった方々と、ようやく会えると。

 

つい先日、祖母が祖父を見送る際に十字を切った事を思い出したばかりで。

この時に思ったのは、宗教は人間にとって必要なものなのだろうという事でした。

死後どうなるのか

死は、生を受けてしまった以上、逃れることは出来ません。

死後、魂は他の魂と融合し、最終的に1番大きな魂と融合する事となります。

個人に死が訪れた場合は、そこで個人は終了する事と同じなのです。

「死が終わり」という事実は、生きている人間にとって非常に酷な現実です。

宗教の発生

自身にも死が訪れる事を認識した人間は、非常に恐怖した事でしょう。

その恐怖を緩和するため、「死後に楽園がある」等の宗教が発生したんですね。

死を目前にした状況において、宗教の他にすがる物はありません。

お坊さんが言った通り、地位や名誉や資産なんか、死を迎える者には無価値です。

死の先に、先に死した方と会える。幸せな世界が広がっている。

そう思う事は、死に直面した人間や、死を目の当たりにした人間を救っているんですね。

祖母の祈り

祖母は祖父の死を目の当たりにした際、十字を切りました。

祈ったんだと思います。

祖父が迷わずに主のもとに行けるように。天国に行けるように。

そして先に亡くなった方々と、久しぶりの対面が叶うように。

僕の見解は死後の世界は無い

お坊さんのお父様、僕の祖母。

祈ったり信じたりしたのでしょうが、死んだら基本的に個人の魂は終わりです。

魂が肉体に宿っていた時に発生する経験や鍛錬は、最終的に全て魂同士で共有する事になります。

シャーマンキングで言うところのグレートスピリッツです。

僕のこの見解に、本日の説法で間違いを指摘されたような気がしました。

悟らば見える極楽浄土

極楽浄土、所謂天国は、存在する。

仏教はそういう教えです。おそらくキリスト教やヒンズー教も同じでしょう。

宗教は最終的に死を迎える運命の人間に対して、死の恐怖を緩和するものです。

行き着く先は同じなんです。

お坊さんは言いました。

「悟らないと見えないよ。」と。

悟りとは、煩悩に打ち勝つことだそうです。

人間の全ての煩悩を捨て去る、打ち勝つ事が出来れば、悟りを開くことが出来るのです。

僕は現在、煩悩にまみれています。

きっと死の直前まで、悟ることは出来ないでしょう。

でも、その悟った時に極楽浄土は観測できるというのです。

それが本当だったら。

お坊さんのお父様は、死の直前に悟りが開かれ、目前にお母様やお姉様が見えていたのかも知れません。

👌は「もう見えとるよ!会えそうよ!」というサインだったのかも知れません。

そして思ったこと

煩悩が無くなる時は、自分の死と向き合える瞬間でしか発生しないのではないかと思います。

それは、自身の置かれた状態をしっかりと把握する能力がある状態で、死を目の当たりにする必要があるでしょう。

ですので。

煩悩があるうちは、その煩悩に負けておくのも良い手段だと思います。

煩悩のままに生きるという事は、魂的にはダメかも知れませんが。

僕は現在、煩悩のままに。

缶ビール5本目を開栓します。

 

明日二日酔いにならないか心配です。

というか、多分なります。

まぁ、煩悩のままに生きて行こうと思いますので。

あぁ。

冷えたビールが、マジうめぇ。

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